満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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分村開拓団から分郷開拓団へ長野県では分村による理想的な村づくりを進める計画に力を入れ、昭和十一(一九三六)年には経済更正が困難な一つの市町村からの移民で二十五~三十戸の一集落を作らせる計画の実施に取りかかり、「一町村一部落建設に関する要綱」を制定しました。そして昭和十二(一九三七)年には南佐久郡大日方村(現佐久穂町)の分村を計画し、翌年には大日方村四百六戸のうち百五十戸と次男・三男五十人を満州に移住させました。これは全国で初めての一村単位の開拓団であり、農村更正特別助成のモデル村として、国・県ともに特別扱いで送り出されました。これに刺激され、各地で分村開拓団が編団・送出され、長野県下からの分村開拓団は十二を数えました。上伊那からも伊那富村(現辰野町)が百六十八人(犠牲者六十五人)を送出しました。しかし、日中戦争の拡大は農業労働力の不足をもたらし、たちまち村単位で開拓団をつくることは困難となりました。そこで県は、郡単位か町村組合をもとに満州開拓団建設本部を作り分郷開拓団を送出する「ブロック分村計画」を進めました。長野県からの分郷開拓団は二十四を数え、上伊那でも、郡を三地区に区分した三つの分郷開拓団を作りました。このうち北部十ヶ町村(小野村・川島村・朝日村・東箕輪村・箕輪村・中箕輪村・西箕輪村・南箕輪村・伊那町・西春近村)は、中箕輪村役場を本部として開拓団を結成し、興安東省阿栄旗太平溝地区に富貴原郷開拓団を入植させました。太平溝富貴原郷開拓団の入植昭和十六(一九四一)年、北部十町村は中箕輪村役場に送出本部を設置し、本部長には中箕輪村長の清水東洋雄が就任しました。そして七月には「信濃毎日新聞」を通じて先遣隊員の募集宣伝がなされ、また、各町村では推進委員を設けて目ぼしい人の戸別訪問をすすめましたが、自ら志願する人はいませんでした。これに焦りを感じた本部は幹部の推薦を先行し、昭和十六年九月には、団長村上顕をはじめとする体制が整いました。昭和十六年十月、基幹先遣隊の五人は八ヶ岳修練農場に入所し、上伊那郡下三団十五人が、内原(茨城県)の義勇軍方式で訓練を行いました。そして、訓練を終えると、一旦帰郷して準備を整え、十一月半ばに郷里を出発し、新潟港から羅津・牡丹江を経由して、十一月二十三日に佳木斯【ジャムス】のすぐ手前の第一次弥栄村の現地訓練所に入所しました。また、幹部は内地訓練の後、昭和十七年一月にハルピンの開拓指導員訓練所に入所しました。そして三月末に入植地が決まり、四月十日に太平溝阿栄旗に入植しました。太平溝地区は、大興安嶺の末端丘陵地帯が西方に連なる広大な平坦地帯にありました。東には天草開拓団、南西には大阪・北海道の開拓団や実習農場、北西には伊南開拓団、北隣には高北開拓団が入っていました。鉄道のジャラントン駅から東北方へ八十キロの場所にあり、旗公署のあるナチトンまでは二十キロ、チチハルまでは百六十キロ離れていました。地区内には中国人と蒙古人の集落もあり、入植当初の治安は良好だったそうです。しかし、「表向きは人ずきもよかったが、日本人に対する反感は強く根にもっていて親しみ難かった」というような文章も残っています。基幹先遣隊八ヶ岳修練農場(昭和16年)〔倉田作子氏提供〕二富貴原郷開拓団について富貴原郷開拓団は、上伊那のうち、北部十町村が満州に開拓団員を送出した分郷開拓団です。上伊那からは、この他に、高遠町を中心とした中部十一町村で送出した永和三峯郷開拓団、赤穂町を中心とした南部九町村で送出した苗地伊南郷開拓団がありました。富貴原郷開拓団については、約三百人が渡満し、そのうちの約三分の一の方が、終戦後の混乱の中で、亡くなったり、行方不明になったとされていますが、詳細な記録などについては、不明な点が多くあります。ここでは、その概要について、昭和五十九年に刊行された『長野県満州開拓史各団編』より引用します。


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