満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.1

第一章満州開拓と富貴原郷開拓団一満州開拓への道明治新政府の外交明治維新により近代国家の仲間入りをした日本が、最初に直面した外交問題は、江戸時代中期から途絶えている朝鮮との修好でした。当時清国(現在の中国)を後ろ盾として鎖国主義をとっていた朝鮮は、日本との修好を拒み続けていました。しかし、日本は明治八(一八七五)年に起きたいわゆる江華島事件を機として、翌明治九(一八七六)年には朝鮮に対し日朝修好条規を結ばせました。これは約二十前に、日本が開国により課せられたものと同様の不平等条約であり、これ以後、日本は朝鮮半島をめぐり、中国(清国)やロシアと対立するようになっていきました。朝鮮半島の覇権をめぐる清国との対立は、やがて明治二十七(一八九四)年には日清戦争へと発展しました。そしてこの戦争に勝利し、清国の力を朝鮮半島から排除したことにより、日本は大陸進出への一歩を踏み出すことになりました。そして清国からの賠償金をもとに、軍備の増強・近代化を進めました。その後、ロシア・フランス・ドイツによるいわゆる三国干渉によって、日清戦争の勝利で得た遼東半島を清国に返還することになりましたが、この時から新たにロシアとの対立が深まっていきました。日露戦争と大陸への進出明治三十五(一九〇二)年にイギリスと日英同盟を結んだ日本は、ロシアとの対立をさらに深め、明治三十七(一九〇四)年には日露戦争が勃発しました。そしてこの戦争に勝利したことで朝鮮半島からロシアの影響力を除いた日本は、朝鮮に対してさらに圧力をかけることとなり、財政と外交に介入し、さらには外交権を握り、明治四十三(一九一〇)年には「韓国併合ニ関する条約」により朝鮮総督府を設置し、植民地化するに至りました(日韓併合)。一方中国では、日露戦争の勝利により関東州(遼東半島南部)の租借権と南満州鉄道付属地の統治権を獲得し、明治三十九(一九〇六)年には関東都督府を設置して関東州の行政にあたるとともに、南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立しました。こうして、朝鮮のみならず中国の一部をも支配することになった日本は、当時満州の軍閥であった張作霖を支援し、満州における日本の権益を拡大することを目指しました。しかし、張はこれに抵抗し、張作霖爆殺事件の後、その子張学良は国民政府(清朝を倒した中華民国)に忠誠を誓い、激しい排日運動を展開したため、満州は国民政府の勢力下に入ることとなりました。これに危機感を持った軍部では、満州を中国の主権から切り離し、日本の支配下に置こうとする機運が高まっていきました。満州事変と満州国昭和六(一九三一)年、奉天郊外の柳条湖付近で、関東軍は自ら満鉄の線路を爆破し、これを中国軍の仕業として軍事行動のきっかけとしようとしました。時の若槻内閣は不拡大方針を決めましたが、軍はこれを無視して軍事行動を拡大し、満州各地を占領していきました(満州事変)。そして、関東軍は昭和七(一九三二)年までに東三省(黒龍江・吉林・奉天)をほぼ占領し、三月には清国の廃帝溥儀を執政として満州国を名目上独立させ、事実上の支配権を握りました。これに対し、満州国の独立を認めない中国は国際連盟に提訴し、リットン調査団による調査が行なわれました。そして昭和八年二月の国際連盟臨時総会では、中国の主権を確認し、日本軍の満州国からの撤退を勧告した決議案が四十二対一(反対は日本のみ)で可決され、翌月日本は国際連盟からの脱退を通告しました。こうして日本は国際的に孤立する中で、独力で満州国の経営にのり出すことになりました。なお、東三省及び熱河、興安を合わせた五省からなる満州国は、昭和九(一九三四)年には新京(長春)を首都として帝政を実施することになりました。満州開拓のはじまり日本国内では、昭和六(一九三一)年の満州事変を契機として、満州移民の重要性が認識され、移民送出の計画が起こるようになりました。拓務省(昭和四年新設)は、昭和七年六月に試験的に満州に千人を送出する計画を立て、当初は在郷軍人から開拓民を選出し、一年目は四百九十二人(長野県関係四十一人)の特別農業移民を訓練の後満州に入植させました。また、第三次からは在郷軍人に限らず一般から開拓民を募集するようになり、第五次では東安省密山県黒台に信濃村二百八十一戸を建設し、これは一県単位の開拓団のさきがけとなりました。この移民(武装移民)は関東軍が強制的に収奪した土地に入植しており、純然たる農業移民ではありませんでした。そのため、入植する際から日本側が匪賊と呼んだ抗日遊撃隊の激しい襲撃に遭い、戦死者も出ました。この頃、日本は大変な経済不振にあり、農村は不況のどん底にありました。こうした事態を改善し、国をあげて経済更正を計るため、満州移民が国策の一つとして展開されました。こうして満州移民が国策として積極的に進められるようになると、長野県下でもそれを先取りする動きが強まっていきました。


<< | < | > | >>