箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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活第1章生男の子は五月五日で、やはり里方から贈られた鰻や、武者絵の峨をたてた。この職の上には婚家の、下には生家の紋章を染めた。また五月五日には、入口の屋根先へ菖蒲・よもぎをさす。菖蒲湯もたいたが、所によっては、節句は新暦でして、菖蒲湯だけは旧暦で行なうところもある。帯結び子どもが三才になると、「三つのころびおび」「三つおび」といって、男の子には三尺、女の子には赤い布かしぼりの赤いさんじゃくが、里方、鉄操親から贈られた。今は女の子には出来合い、の三つ帯があり、はこせこ、ぞうり、バック等のセットになったものが使われる。入学明治から大正の初期ごろには、現今のように祝いごとはしなかった。その後、里方からかぱん、その他親戚から関係の深さに応じて石板や石筆などの学用品が贈られるようになった。赤飯を炊き返礼として祝を受けた家にそれを配る。十三のおこし初経になると赤飯を炊いて祝った家もあったようだが、それは稀で、普通は初経のあるなしにかかわらず、女の子が一一一一になると、星から赤いブラシネルのおこしを贈った。成年会下古田では一五才で加入し、二七才で退会していた。入会式は一月一日の晩に行なわれ、入会者はたもとの着物を着、清酒一升を持参するのが習わしだった。養子に来た人は年令にかかわらず入会し、一一一年間は義務的に在会した。毎月一五日が定会で、会員の演説会を聞いて活発であった。六月一日の夜にはお松立といって、区長宅の門口にこっそり門松を立て、しめ飾りをつけた。翌朝それを見た区長は、部落中にお正月をして休めとふれ回り、青年や男衆たちは、誰に遠慮することなく一日遊んで過した。大正十年ごろまで行なわれた。土用の入りには神社の境内に土俵をつくり、相撲をとって一ばい飲んだ。部落の祭事係りとして、祭りが来ると境内を清掃し、燈篭を張って織を立てた。宵祭りの夜は、参詣者の帰っ成人


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