箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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蚕室などをあて之移転した。明治42年の中箕輪尋常高等小学校木下尋常小学校を統合して、中箕輪尋常高等小学校を現中部小の位置に設立し、中箕輪農工補修学校も移転し、西分教場も含めて、一名の校長をおき発足した。二長岡と小河内の争い明治四十一年二月二十七日校地増地御指定ユ係ル内申、東箕輪村長←郡長。OL児童数と図面を添えて増築の認可申請を申したが、此の年の四月には、「村分合の請願書」を、区民の総調印によって、内務大臣に提出する程に、長岡は東箕輪村より分れて、中箕輪村に合併しようとする動きが盛んになった。その理由としては、長岡にある資料から考えると、次の通りである。両区の争いは明治二年にさかのぼる栃久保、日陰、共有地の入会権一ノ沢川の水利権里道改修(明治二十九年より五ヶ年)学資林(明治三十六年より二ヶ年)このどれをあげても長岡の不利になることの連続であった。そして、現在「村会議員一一一名が悉ク両小河内ヨリ選出シ


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