箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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子に野球熱が出たのも此の頃である。運動として登山が起り、駒ヶ岳、経ケ岳、守屋山に登山するようになった。宗教々育も起り九「四月二十日松島神社祭日ニハ参拝式ヲ行ヒ校長神社ノ由来ニツキ訓示」をした。明治二十五年に、三か村により設置した組合立箕輪高等小学校は、明治三十二年八月二十五日の村会において廃止の決議Oをおこない、各村毎に高等小学校を設置することになった。O箕輪村高等小学校、東箕輪村高等小学校、中箕輪村高等小学校の三校設置となって発足した。続いて、中箕輪高等小学校備品購入費として寄附をおこなった。五円から五銭まで四六一名によって一、五円三五銭を集めることができた。これに併せて、国史大系、続群書類緊、大日本人名辞書、家庭百科事実、大日本地誌、国際公法論、大日本農史などの図書の寄附もあった。高等小学校に農業補修科が加設され、これが後年に農工補修学校へと発展するのである。木下子守学校進修学会とならんで、特筆されるものに、明治二十六年の木下子守学校設立がある。教育の特例として子守学校をつくった。現に子守に従事する就学猶予者の教育であった。校則には、修身読書、算術、唱歌を土曜日の午後と日曜日におこなう。必要な道具は、一切貸与し、通常の生徒と同一に考えず「凡テ経費ハ当分義損金ヲ以テス」というものである。東箕輪村の教育拡張実業補修学校規定が公布され、高等科と実業補修学校設置に東箕輪村では活発な動きが出始めた。明治三十二年三月と三十三年三月の二回にわたり、東箕輪村の学務委員四名は「東箕輪村教育拡張-一対スル意


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