箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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えられた教育令と対照的である。明治十二年に明治五年の学制にかわって教育令が公布された。学区を廃し、学務委員によって学区取締りの任を持たせた。これは明治十年の西南の役による国費多端を理由にして、教育はすべて地方の情勢によることを主とし、また、自由民権運動の影響を受けて、自由教育令とも呼ばれる程であった。学校設置も、就学義務も地方の自由にまかせたのである。然し、これによって教育の不振が表面化し、翌・十三年十二月には一年間のみで「改正教育令」によって学校設置や就学義務を厳しく規制するようになった。制度は小学校八ヶ年を初等科(六級)三年中等科(六級)一一一年OO高等科(四級)二年の三段階編成とし、各科とも半年を一期として、初等科、中等科は六級より順次一級に進み、高等科は、四級より順次一級に進み、高等科一一般を卒業した者が、高等科小学科卒業生となった。「教科書及び学科ハ左ノ中ニツキ自由撰択トス」となっていた。明治十二年の教育令に比べて十三年の改正教育令は、初、中、高の三階段に「修身」から始まって、高等科の「経済」に至るまで、実に細部にわたり「教則綱領」に示してある。続いて十四年には「小学教員心得」が出ている。明治十三年一月に、松島学校の校舎が焼失したので、明音寺に仮校舎を設け教室とした。「学校再築規約」を造って再挙をはかり、明治二十四年十一月五日に落成式・開校式をおこなった。費用凡そ三000円で寄附金は一円より最高一円までが集められた。守908


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