箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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で、村三役の家を除くとあと四戸しかないというおかしい村もあったわけであった。箕輪町の旧村落は、龍東の福与、三日町、長岡、南小河内、北小河内の五ケ村、龍西の沢、大出、八乙女、下古田、上古田、富田、中原新田、松島、木下の九村、合計十四村であった。明治になって新政の改革により村落の併合を行ない、広域行政政策が採用された。まず最初に小区政が布かれ、明治五年八月十八日箕輪町の村々は筑摩県の行政区は次のようになった。百二十六区福与、三日町、長岡、南小河内、北小河内百三十一区沢・大出・八乙女・松島・木下百三十二区下古田、上古田・富田・中原新田と、吹上、中曾根新田の二村(この二村は西箕輪分)次には更に村落を併合するように勧奨され、殊に筑摩県ではこれを強行し、最小区域でも一区一村に統合するよう指令し、そのため各村はその線に沿って、交渉話合を行った。何分にも数百年に亘って村落をなした歴史と、地形の関係で、なかなか合意が困難であったが、県はなお厳しく督促し、時期までも指定して実行を命じてきた。その結果、明治八年二月十二日次の通りになり、第百二十六区五ケ村が合併して、東箕輪村となり第百三十一区と第百三十二区の吹上、中曾根新田村を除く九村が合併して、中箕輪村となる。これによって、明治八年には二町(東高遠町、西高遠町、南高遠町)二十七村が生れたのである。新村で問題になったのは入会地、その他のことがあったが、東箕輪村でまず困ったのは事務扱所の位置であった。最初は五部落の中央の長岡の長松寺に置いたが、移動もあったようである。これについては確実な記録はわからないが、「経古之記録」(長岡藤沢俊英所蔵)に次のように参考になる記事がある。「明治八年二月二十五日長岡村長松寺に扱所の会所据置次の年南小河内新左工門に扱所をうっし、又翌年文蔵宅に移し、明治十三年五月まで扱所たりしが、南小河門上田門三郎戸長人選に相成戸長役場と懸札し云々」明治九年三月村の扱所の移転願いを提出しているが、実際については、詳細にはわからない。


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