箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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戦後においては、経済の復興、生活の近代化、生活の改善が推進されて、特に農家の台所改善、湯殿の改造、便所の改造等が大きく採り上げられ、経営の近代化により内厩の外への移転によって部屋の改造の進むなかに、改造から新築へと移行されていった。政府の所得倍増の施策により、各地に工場が建設され地域住民の地元産業への就業に伴なう所得の増加は、住宅政策と相まって、建築資材の進歩によって、持家要望を満たす為の好期となり、和洋折衷住宅建築によって洋風化へと進展して、従来からの住居に対する思想的背景も大きく変化してきたのである。特に間取りについては、玄関、応接室、居間、座敷、子供部屋、台所、浴室、便所等に立体的に建築され、宅地の高騰に伴い二階建住宅が増加して、住居としての機能を十分に発揮できるように設計され、家族の生活においても、部屋の独立によって、日常生活において私生活と接客が分離され、子供にも個室が与えられ、流動的に使用の便利さが配意され、新らしい生活様式にかわりつつあることはこれは反面従来の建築を懐しむことになる。このような変化は、洋風化の急速なる進展と建築資材の変化によって、従来の木造主義から耐火構造主義に、大きく移行し、住居の景観も洋式を採り入れ、住居に対する考えも、大きく変化しつつある。第五節字明治以前の上伊那の村落は百八十、高速だけは何町何町とい、そのほかは何村何村と称して細分された小区L域の村落でありました。これは封建制下の江戸時代では全国的にほぼ共通していて、戸数人口も大小区々であったが、それぞれ名主、組頭、百姓代の三役があり、封建政治の一単位になっていた。小さい村は拡が諏訪で見た極端な例を挙げますと、今の岡谷市西堀の一村落小梅沢新田村は、明治七年に戸数七、人口二十八人という山村地名大


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