箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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る。この部落も水については非常に苦労して確保している。帯無川分水析で上古田と揚水して部落上で分水して長い導水路によって生活用水を確保して飲用兼田用水として簡易水道敷設迄は誠に貴重なる用水であった。山論は隣接部落との聞に数多くあったが長期にいたらず解決されている。今では農業関係施設が建設され、町の農業機械センター、農業協同組合の中央稚蚕飼育所、老人花園等の施設が設置され将来は部落東に発展していく環境にある。大出段丘の上に集村した部落である。昔は沢区と同じであったが、大出沢村根元記によると、大出城村とOO大出沢村の二ケ村に三年前別れ今日にいたっている。この部落では生活用水の確保には極めて困難を極め、昔から下古田、八乙女との聞に水論が長い間にわたって争われた。飲料水確保には地下水をもとめ、井戸を掘削したが、地下水が低いため、いずれも十五米から二十米の深いものでその苦労は一方ならぬものがあった。水田は深沢川、天竜川の沖積地にあり、西天竜の通水によって、畑地の開田により農業経営安定に大きく影響を及ぼした。畑地帯は西天竜上より山麓迄の火山灰土の地帯で雑穀が主体である。明治・大正の養蚕が盛んの頃には製糸工場もあった。明治三十八年には大出信用購買組合が結成され、中箕輪村産業組合の発祥地である。部落民が良き先覚者の指導により、農民として自覚をもって協力した賜ものである。他部落にも設立されたが中途でざ折している。文化の面では、伊那街道筋でも文化交流の盛な所で、十返舎一九が土地の文化人に招かれて来村した。大永寺に逗留して紀行文「旅賀羅寿」で古田人形芝居を照会している。小正月の行事「大文字」は昔からのままに引継がれて毎年盛大に行はれ、文化財として椛の木、太夫塚、城山古城、御手洗池(みたらしの池)があり、中央自動車道用地の中道地区も埋蔵文化財の発掘が行なわれているが多数の住居祉があって成果が期待されている。


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