箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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この部落には、水論はない。飲用水としては、段丘下から湧水が豊富に出ているため、それぞれ地域毎に簡易水道組合入が結成されていたが町営水道敷設によって六組合となる。湧水の多い木下にも上町一帯は飲用水確保には、難渋を極め遠く泉沢より手桶によって運んでいた。篤志家荻原九内は住民の困窮を見かねて、西垣外地籍の自己所有地に小林徳兵衛の協力を得て、横井戸を掘さく、井壌を開設し、末端の水で芝宮、菅谷、中条地区約八丁歩を開国するべく計画して、三年有余の日時と私財を投じ、明治三十四年四月完成した。地域住民は之に感謝して「寿水」と名付けてその功績をたたえた。医療機関も、中川、松山、倉田、草野、小野、唐木(英)、唐木(秀)、荻原の一般医院及病院、木下、菊地、植野の歯科医院が明治、大正、現在に至る迄地域の医療を担当された。医療機関は箕輪各村では一番であった。災害の主なるものは、明治二十五年八月十一日の嶺頭院の火災で、鐘楼を残して全焼、明治四十二年の南部の大火、国道両側合せて十五戸焼失、大正九年二月七日山一製糸工場と附近数戸を全焼して数百米離れた高雲寺に飛火して全焼、大正十五年冬法界寺が全焼する。文化財も数多くあるが、旧三州街道と木曾街道分岐点の道標、養品輸寺の観音堂、及鐘楼、法界寺の守屋貞治の石仏地蔵尊、及木下陣屋(加集関係)家臣の墓及び石塔、一之宮社地跡、芸能関係では「オハヤγ」が青年達によって明治、大正にかけて箕輪南宮神社の初祭、夏祭に盛大に行われた。明治、大正に渉って農村娯楽施設として箕輪座があった。芝居、演芸、活動写真が盛んに興行されて近在、近村より多数の人を集め、娯楽のひとときをあたえてくれた。中原西部山麓と天竜段丘地の中間にあり、慶安元年に時の木下陣屋代官加集杢助が中原住民に文書(お墨付)を下附されて新田村として発足したのが初まりである。畑作地帯であるため養蚕を明治・大正期には全面的に導入して農家経営の主軸としていた。当時は中箕輪村では一、こを競う余唐沢製糸工場があり、西部山麓地域の経済の中心でもあった。耕作地は西は上古田地区耕地が家の際まで迫り、北は松島・上古田の大原地区と接し、東は家より三百米迄の所、南は帯無川迄の狭い範囲であ


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