箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


>> 874

いる。その他上古田の深沢日向においては唐沢助右エ門によって瓦製造がおこなわれ、西部方面の各部落で使用された。文化財等も数多くあり西部山麓の各部の中では、文化の中心地であって、「古田人形、でく人形芝居」は保存会によって継しようされている。俳句も盛んであったため辞世句碑が多くある。石仏、石神が部落の各所にあり、白棒隊、彰義隊、日露戦役出征記念の石碑がある。木下天竜川の沖積地に集村した部落である。東南の沖積地は水田地帯で天竜川の蛇行により起伏があり、品目の弥生時代の農耕地箕輪遺跡へ続いている。段丘地の上は西天竜の水田地帯となり、更にその続きが中曾根部落まで畑地帯と一之官開拓地に続き山麓地となっている。農業は水稲を主体として、果樹、酪農、野菜、煙車、雑穀等である。特に戦後食糧増産のため一之宮開拓地が誕生して、全く水利の皆無の火山灰地を、今日では畑作モデル地区に成し遂げ、安定した農家経営が行われ、地区民の努力は賞賛されている。かつては箕輪郷の中心地として、商業の繁栄した町であって、木下陣屋が上之段に設置され、町割も行なわれて、商家が立ち並らび町の形態が出来上がり。商品流通も年々多くなったが、明治、大正、昭和十五年噴迄を境に下降をたどって戦争に入っ待される。た。明治の製糸工場はその数において、又釜数においても町で最も多く、町内は繁栄を極めたものである。現在は精密、電気その他の工場が進出して活気ある町となり、県、町が推進して住宅団地造成も、北披地区に決定を見たので、今後の発展が期木下


<< | < | > | >>