箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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その他に春駒の唄と舞があり、一月十三日養蚕の豊作を祈願して村内くまなく舞いあるいた。又富田獅子舞の歌もある。中曾根西部山麓と天竜段丘地との聞に在って、富田の新田として明暦年中に(一、六五五)に開発したと考えられる。昭和二十九年十二月三十一日伊那市より分市して中箕輪町に合併編入となる。この地帯は畑作地帯であって、町における最大の養蚕の盛なる部落である。戦前戦後を通じて一貫して養蚕に打込み、大正九年糸価の暴落、戦前の食糧増産、戦後の農業経営の混迷を乗り切り、現在は稲作・養蚕・果樹・酪農を主体として営農経営が続けられ、毎年の箕輪町農業協同組合養蚕部百貫会の発表を見るに上位を独占している。大正六年大正館製糸が設立され六十四釜に揚枠場も併設K-Kされ、大いに地域発展に貢献したが、昭和初期の不況により閉鎖解散となる。この部落の最大問題は水であって、区民の苦労には測りしれないものがあった。大泉川水系では、中途で揚水して、吹上部落の上で分水析によって吹上、大泉新田、大泉の南口と、富田、中曾根の北口に二分され、更にその下で富田、中曾根に分水されて六米のOO井堰によって部落に入り、更に分水析で二分されて水田地帯に入って三分されて古田九反歩、新田七町三反二畝に濯慨されているが、水不足の折は時間水によって濃概されている。帯無川水系は当初は「大なぎ下」で分水析によって北口を上古田、中原、南口を中曾根とし、渓谷の南側の北斜面に水路を堀り、ずい道を掘って、曲り曲って山麓に出て、概ね延長六粁の井堰により部落に至る。年によっ中曲Eヨ根


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