箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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駒ヶ岳の夕映えの様相、萱野の夜景には一際心を奪われ「昔から小僧泣かせ」と言われ、一幅の名画が眼前に展開されるこの環境が、夏期学生村として今日定着したことはそぽくな区民性と自然的条件によるものであらう。富田神社と並びに薬王院と言うお堂があって本尊は薬師如来が安置されている。このお堂は毎年二月八日と四月八日にお祭りをしていた。堂守りの山伏や老僧が居住していたころは、二月八日のお釈迦様の亡くなった日は、区内各家々から白米や金銭の御芳志より「粉餅」を花形に作って、参拝者に御護符としてくばり回向をした。四月八日のお釈迦様の誕生日には、七日の宵からお堂の内陣から庭一面にちょうちんをつけ、村の青年衆は大釜に甘茶を煮て、参拝者に配って村中でお祝をした。明治の末期から大正末期迄は、青年衆は夜を徹して踊りあかした。当時丸信箕輪館という組合製糸があって、近在は勿論のこと上水内、下水内郡方面からも多勢の女工が来ていて、一所に踊り、その頃変った踊りで「ヤッショイ踊り」と言うのがあって、手のこんだ、活気に溢れたもので、養蚕繁栄時代と農民娯楽の一面がうかがわれる。現の一節を見ると「ゃっしょい、ゃっしょい、ゃっしょいな石をとってぶつけろにくい野郎奴にぶつけろ」その晩には糸繰り唄も同時に踊り、肌寒い一夜を熱気のこもった中に夜の更けるのも忘れて過したと古老は語ってくれた。富回


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