箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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し」が多量に植栽された。明治初年にはすでに二十釜の製糸工場もあり当時近村では三指に入る規模であって、女工も飯島、七久保方面OOより多数稼ぎにきており、繁営していた。大正、昭和になって三工場があり、七十釜が稼動していた。水論には、桑沢川に関する辰野町北大出との争いがあり、江戸時代寺社奉行の裁定があって北大出六分沢四分で引水することに裁定があり、その後沢水道の水源等により更にその割合七・三となり、近時桑沢川砂防ダムの建設により、水利用について再考する時期が到来している。伊那電気鉄道の開通当時は、沢上北部より斜めに北小学校附近を通り大出下を松島へ開通された。その後大正末には現在線に移動した。当時機関区の建設も計画されたが、時の政治状勢によって松島に設置された。衛生については、伝染病の発生においては町では多発地区であり、明治三十九年頃には赤痢の大発生があり百有余人が擢患し、その後においても五人位は隔年発生している。神社は明治初年には熊野権現・白山神社・若宮八幡神社・手長神社・御岳神社の五社があったが、合組して蕗原神社となっている。この部落には石仏が数多く、十一面金剛・道祖神・水神、石撞(石灯篭型)等があり、堂の遺祉も数多くあり、往昔は、神、仏の信仰が盛であったことがうかがわれる。O富田西部山麓に位置して、町内部落中で標高は一番高く八五米から九二米の間にあって、南北およそ一、三米の内に、東にゆるやかな傾斜の中に九戸の家が三つの旧常会に分かれて、農業を営み散在している。水は山沢から流下するのと、大泉川の水を吹上(品目は富田の新田)地籍において中曾根と分水して大泉所井堰Oと、横井戸五個所の湧水によって稲作が行われているが、それぞれの用水には権利があり、ことのほか厳しい慣行によって利用されている。西に梅木沢山を懐に奥に黒沢山と経ケ岳が併立してそびえ、東は伊那谷を一望に南アルプスの夕影と、特に東


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