箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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松島ては、山崩れの災宝間にあい、途中で土砂流入にあって水路の維持管理に多額の費用をかけてきたが、昭和四十二年に「乙女橋上」に分水析の移転が行われ、今日ではその苦しみより解放された。濯甑面積三丁三反三畝に分水析三個所によって濯概され、潟水の折は前記と同様である。その他にも横井戸が三ケ所がある。この水利権についても水争いもあったが、大泉川揚水には、享保十九年十一月(一、七三四)近村の村役人が立入り仲裁された。明治になって十年の間部落内で争われ、訴訟迄行って争いが続いたが、近在の村の有力者が仲裁に入り、示談書を取交わして解決をしている。帯無川については、松島区より水利権を買収し、金銭と労力により負担し、水を利用してきたが、上古田、中原との関係もあって、いろいろとうよ曲折があったが、昭和四十二年町長碓田重人によって円満解決をした。この部落には藁打唄、草刈り唄、盆唄、童唄が残っている松島天竜川の広い河岸段丘地に集村した部落である。この沖積地台上には湧水と井堰による水田と畑・宅地になっている。段丘上は西天竜の水団地帯と山麓との中間地帯は大原の畑地となって、上古田、中原の畑地に接している。天竜川のはん濫地帯は水田であって沢の頭首工より揚水した中井堰によって濯概されている。古い宿場町で、太田陣屋の所在地であり、交通上の要地として発達し、特に明治後半から大正年代にかけて製糸業の発展によって、製糸工場ができ、従業員の増加により人口が急速に激増し、商庖も繁昌した。


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