箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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不明確のままに自己を主張して、明治二十五年から大正四年に至る二十五年の長い間争い、人身傷害等相互に起して裁判となり、両区にとっては悲しむべき大騒動(飯田事件)が発生した。大正四年十二月に、時の郡長、両村長が仲裁人となって、両区委員が出席して協議の結果は、長年にわたった境界紛争も示談の成立によって解決を見た。在来の商工業中、東山の豊富な「スズ竹」を利用して蚕龍作りが行われ、近村からの需要も活発で、最盛期には七軒の生産戸数があり、養蚕の盛んな頃の一面がうかがえる。福与東山麓の段丘地にあって、概ね西に急傾斜の起伏が非常に多い、火山灰土の土地である。水田は一部山沢の湧水によるものと、段丘下の天竜川氾濫沖積地にある。山沢の水が集水されて段丘地を流下すると、判の木沢川、吉田ケ沢川、兎沢川となって、急傾斜であるため、雨水が多量に土砂礁を搬ぶため、周囲の平地より河原が高くなり、いわゆる「天井川」となっている。との状態は福与、一二日町の各川は全部が同じである。この区は、卯の木、郷沢、中村、判の木、鹿垣の小部落によって構成されている。起伏の多い土地であるため西部よりながめたところでは、耕地状況は少く感じるが現地を実際に見学した「町内めぐり」の人達はその広さに驚いている。この地の水田耕作は、毎年水不足に悩まされるため、昭和四十二年五月竣工した、福与濯甑排水OOM組合により、伊那土地改良区の水路より一・一の所にある、盆地公園の一隅にある分水槽まで揚水した。COM総事業費一、八一万円、揚水機口径一三、一Mを揚水し、上井、中井、下井の八六一OO馬力、三、三OOVの高圧電流により毎分二七個の水量の水路によって二に濯減して、地域農業開発を行った。この部落にも水論は大・小いくつかあった。最近では中の沢用水について判の木・鹿垣の争論があったが、農業委員会が仲裁に入って解決した。山論については福与、三日町、八ツ手の境界峯山地籍については、明治七年一応伊那県による境界設定が調定されたが、その後三区住民の同意を得られぬままに過ぎた、昭和四十三年林業構造改善事業を施行するによっ


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