箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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昔から長岡は「道悪。?悪」と言われ程、道路が悪く春先、雨降りの時期には、ゴム長靴の普及されない頃は、(さし歯)の下駄を履いて歩るいても、次に一歩踏みだす時に足をとられて、裸足になってしまう程で砂利の入らない道路には苦労させられた。砂利、砂を敷くには、馬の背や牛馬車によって天竜川、沢川から運搬したが、十沢の坂、三寿院の坂ともに急坂のため量を運べず、苦労したが、合併後はトラック、ダンプカーにより、積込みは「ドLザLショベル」になったので、短い期間に敷砂利、舗装が行われ、汚名は過去に葬り去られた。遺祉、建造物、石仏、木等文化財が数多く存在していて文化に対する区民の心情がうかがわれる。なかでも地蔵信仰の十沢地蔵尊(作者不明)長松寺の延命地蔵尊(守屋貞治作)があり石仏も区内各所に古いものが数多く存在している。三日町天竜川のはん濫地区の段丘よりに集村している。普から天竜川のはん濫によって、住民の生活は安定せず、慶長十七年噴(三百年前)大洪水により、今の国道バイパス木下、久保附近が本流であったものが、東の方へ溢水して田中城附近が本流となった。この頃一一一日町は、小字に見られる通り、現在本流の西にあって農耕していたが、暴れ天竜のために安定した生活がなかなかできずに、大きな犠性をはらっていた。昭和三十五年迄に一応天竜川上流改修計画の線に沿って堤防工事が実施され、耕地を災害から守ることができるようになり、長年に渡る水防作業から解放されると共に、用水も数個所から頭首工によって揚水していたが、伊那土地改良区の設立により、水田の区画整理、湿田の乾田化が実施され、東河原地区には大規模の揚水施設によって、天竜川東西に幹線水路が布設され、伊那市までの大、小いくつかの頭首工が撤去された。交通は南北に主要地方道伊那、辰野(停)線があり、改良、舗装工事も逐次施行され、交通の流れもひとしお多くなり、東西に美簿、箕輪線が通じ、通過交通量が日増しに増大している。この部落の特長として、天竜川に上流より、明神橋(永久橋)箕輪橋(永久橋)町田橋(木橋)が架設されていることは、この水系における特異な現象である。山論では特に一一一日町、長岡との境界線について、双方が山形、道形及び古来からの言伝えを主張して譲らず、


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