箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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が供えた餅と交換して持帰えり、力をつける意味を祈りながら一つは馬に、一つは飼主が喰ベる「山の神祭り」が行われている。用している。あるため、水田約二三として使用されていた。れ財政的に困難を極めた。出荷された。長岡段丘上の部落であって、土質が、中央部は真土でやや黒く粘土質で水はけが悪く地層は深く、その周囲はぼい土地帯で真土に似ているが、やや粘り気が少なく、更に外周は赤土地帯となっている。この土地を江戸時代から今日迄も適地適作の畑作経営を研究前進させ、農家経営と市場の要求を生かして作物を選たくしている。江戸時代の業たばこ・麻・明治以降今日迄の道程は・あい葉・麻‘桑・雑穀・果樹・野菜等地力を最大に活稲作については、天竜川、沢川の沖積地と部落内で耕作されている。天竜川水系は、西河原地籍で頭首工によって揚水され、大坂井堰によって二五・六Mに濯概され耕作されている。沢川については南、北小河内に水利権がHの耕作には一の坪外四個所の頭首工によって、大堰、右岸の余水を揚水して濯減している。部落内の用水としては、寺沢等外の沢水を使用している。地下水が低いため井戸を堀っても水は出ないので、南、北小河内に権利のある樽ノ尾沢の水を分配してもらい(ヰ殉六一詳細〉用水に又、水道の布設までは、飲用水山論の歴史は入会山問題に心血が注がれていた。日向入、日陰入約三千の地元長岡として大いに威張っていMたと推察される。昭和十九年永年に渡って論争されてきたこの間題も関係部落に分割されて、自力、県行、特殊の諸計画によって、造林されて良好なる美林に成育されている。この外には三日町との境界にともなう訴訟事件、南小河内との日陰入土地所轄訴訟事件等が永年に渉って行わ在来からの商工業としては野鍛治が二軒、藍葉の産地であったので染物屋(こう屋)が三軒、「スズ竹」利用にKKよって蚕かご作りの竹細工が二軒と伊那物産の一社があり、生産品は原材料の「スズ竹」と共に松本方面に


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