箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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南許可内善構造事業によって、農道整備、水路整備、排水整備は両地区関係耕作農民の農業振興にかけた情熱がうかがわれ、幹線水路の大堰改修工事も同時に完成したことは、二重の喜びであった。大堰は北に流れるため「おさんやり」の行事が八月の盆に行なわれている。沢川の水利権は、南、北小河内にあるために、長岡と水争いは常にあった。その度毎に両区は一心同体となって難問題を解決していた。明治二十年頃迄の養蚕は、土手桑によって飼育されていたが、養蚕飼育が盛になると、桑を焔に植栽する者もあり、「ねずみ返し」を導入し、養蚕に力を入れる農家が増加してきた。飼育者は結束して明治の末期には、養蚕実行組合を設立して、技術員を一一雇入れ、区内養蚕家の訪問指導を行ない、一方においては催青所兼事務室を建設して、百十戸の養蚕家は団結して養蚕業発展に努力をして昭和初年迄続いたが、農村不況によって経営転かんを考える時節となる。この転機が果樹導入となり、昭和六年有志者三人が「リンゴ」栽培を初めたのである。昭和三十四年催青所及事務室を売却して養蚕実行組合の長い歴史に終止符をうった。山論については、北小河内、長岡と同様日向入山、日陰入山の入会については、昭和十二年九月二十三日の白紙委任決議に至る迄のうよ曲折の多い波乱に満ちた道程をたどり終末を迎えたのである。この部落には今日迄「山の神祭り」が続いている。文化十四年一月十七日からの当番帳が引継されていて、区では当番者は一人であるが、神酒五合、と初穂料二百円を昭和四十六年には渡して祭りをしてもらっている。一般の参拝者は藁包に餅をニつ丸くして入れ、これを山の神に供え、他の人


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