箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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れて上演し、大道具は部落で作り保管した。上演する種目は、「太功記十段目」「奥州安達原三段目」「鎌倉三代記」「一の谷熊谷陣屋」「神霊矢口之渡し」「菅原伝授寺子屋」等で一興行で三幕から四幕が青年、壮年、老人によって上演され、娯楽の少ない当時としては区内は勿論のこと近郷近在から多数見物人が集まりにぎわった。戦後においては、他部落にさきがけて歌舞伎が復活上演されて、これに刺激され、上古田、沢、北小河内、北大出等でも上演された。このような状況の中から同好者である小平英夫、丸山円治、唐沢千代重等が発起人となって箕輪歌舞伎研究会が結成され、郷土芸能として保存されることになった。きずきこの部落には青年の娯楽として「お松立」「土俵築」の行事が行われていた。「お松立」は、青年会員が旧六月一日夜会長宅に集合して夕飯にかっば飯を喰ベて前もって準備された門松を区長の家の庭に立てる。区長は明朝これを見て今日一日は「正月をして遊べ」と区内一般にも知らせて農休みをして一日休養をした。この行事も大正末期迄続いたが、今は行なわれない。「土俵築」は、七月の土用入りの日青年会員が、神社の広い庭に土俵を作って、お互いに力を競い合うもので、娯楽の少ない頃の青年の楽しみであり、酒の勢いも加わり盛大なものであった。北小河内天竜川の氾濫源にあって、北は辰野町樋口と農道並に農業用水路と西は天竜川によって、辰野町羽場と境しており、山際の段丘地の久保中村と氾濫原平地に漆戸、宮下の小部落がそれぞれ集村している。現在の天竜川の河床低下と本流の蛇行の状況を見る時、今の本流は今から三OO年以前は中村バス(停)西南の附近耕地と同一状態であったと言われており、竜崎山東光寺と天神社が建立されていたと伝えられており、長い年月の聞に暴れ天竜川の激しさが偲ばれ、なすがままに放置されて来たのが現在である。用水の状況を見ると、沢川にて揚水して、南、北小河内水田に濯概する大堰と天竜川より頭首工で揚水する上河原地区並に電気揚水の下河原(天神)地区及び樋之沢、西之沢、中之沢その他の山沢の水源によるものと漆戸には辰野町朝日地区の東天竜用水の流末によって、稲作が行われ、果樹、酪農、野菜、葉煙草等を取入れ、農業経営


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