箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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たが、今ではその頃が懐かしく、忘れられた道になってしまったと古老は話してくれた。部落名の「八乙女」の名称については、何か神に関係があると考えられる。小字にも祝神・五輪・宮林・宮東八幡社等があり、近くこか所程発掘調査も行われるので、少しは解明されると思う。現在は水道敷設によって住居は段丘の上、畑地に移転されつLある。下吉田西部山麓の東南に傾斜し、その斜面に三方又は四方に石垣を積み家居が立ち並び、西及び北に山林を背負って日当りの良い部落であるために、上古田よりは桜が五日も早く咲く温暖の土地である。水については、大出区との聞に北の沢川の用水について水論があり、長い間争われたが、大正十二年に解決をした。水道が全戸に引かれる迄は北の沢川より揚水した水が飲用水であり、回用水としても重要なる生活用水であった。深沢川は上古田地籍より頭首工によって揚水し、宮つ沢川は井壌により溜池に貯水して、戦前は米作、畑作、養蚕により、戦後は特に昭和三十九年に構造改善事業が施行完成されて米作中心として酪農、養蚕、果樹、読菜等を組合せた、多角農業経営が進展している。商工業については、明治初めに酒造家が二軒あったが経営不振となり廃業してしまった。明治三十五年頃となって養蚕の振興と共に丸十小林製糸工場と丸栄柴製糸工場が建設され、両工場で一釜近く操業していたが、OO共に大正初にそれぞれ木下、宮木へ移転してしまった。この部落には、青年を中心とした氏神の祭典及び国家的の祝事のあった折には区を上げて地狂言が行われた。明治・大正の頃には衣装は高遠の業者より借入れ、小道具は関係者において製作したり、近隣の各部落より借入下古田


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