箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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もよい所で湧水に恵まれ、水害もなく沖積地の耕地に近く、暖かい日の受ける段丘崖を背にして、乾燥もしている好条件を備えて発達してきたのである。扇状地に発達した八乙女は深沢川の水利用によるものと、中原、中曾根は用水路開さくによって水が引かれ、発達も少しおそかった部落である。河谷の部落としては沢川、一之沢川の浸蝕によってわずかにできた平地と、それに続く傾斜面の下部に発達した長岡新田があり、水は豊富で谷聞で風はさえぎられて暖かいが、日照条件がよくないがその反面採草地は近く林地が近いので自給農業を営なむにはよい。このように各部落共にそれぞれ発達してきたが、立地条件も異なりすべてを満足させるような位置が最も望ましいが、実際にはなく、時代とともに生活の変化により、時代に即応した新しい条件を見出しながら今日に至る迄には自然的の条件は重要であって、欠くことのできないもので、-地形、2、標高、3、水、4、気候、5、災害であり、人文的条件も加わり、ー、政治、2、経済、3、社会、4、交通、5、宗教、6、観光開発等が加ってきたのが現在と思われる。八乙女西部山麓地より下ったこの部落は砂磯土地帯で北側が高く南東に傾斜して深沢川の沖積地にいたる温暖地である。特に町でも屈指の霜道があり下古田境から大出山道北と西天竜上の大出境は毎年被害を受けている。水道が引かれる前は、北の沢段丘の湧水と下古田用水の下流水を利用して使用されていた。家屋も大半がこの北の沢段丘地帯に集っているのと戸数の少ないのは水の問題によるものと、耕作地によるものと思う。交通の発達する前は村の中央を南北に貫ぬく道(羽広道)と深沢川段丘地を東西に大出下古田へ貫ぬく道及び部落より斜めに松島へ通ずる道が主なる道であった。中央を貫ぬく道は、明治末期頃迄は北は北大出、羽場、平出宮木を通り諏訪松本方面に通じ、諏訪神社詣り及び善光寺詣りの参詣人の往来で賑わい、南は中原、中曾根、与地を経て権兵衛峠を木管へ通じているので馬市帰りの馬喰衆が馬を十頭、二十頭と引いて通る主要な道路であっ


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