箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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成されている。これらの此較的多くの民家が密集して部落を形成した立地条件と分布状況を見ると、地形や水利(湧水)はもちろんであるが、天竜川の洪水による自然災害をさけて段丘地の上に部落を形成したのである。明治四十年代には三州街道(今の国道一五三号線)の整備、西天竜開発計画により、部落が国道沿いに形成されたのが沢上部落で、伊那電気鉄道沢上停留所の設置により戸数が増加したのである。大正十四年になって、西天竜濯瓶工事によって畑・山林・原野が水田となり、生産力の増大、人口収容力の増加によって、木下の原町・松島の春日町等の部落が形成されたのである。戦後の昭和二十五年政府の勧しようもあって、食糧窮ぼうの打開策と復員等による労働力増加対策として開拓が進み、部落として一之宮開拓地が形成されたのである。O県、町が推進する住宅政策の一環として、公営住宅、団地造成が進められ、社会的要求によって公営住宅建設、宅地分譲によって形成されたのが長岡住宅団地であり、昭和四十七年以後は木下の北城・南城の両住宅団地と沢の住宅団地は、近い時期に部落が形成されると考えられる。第二節部落の立地条件明治以前の上伊那の村落は一八、高速だけが何町何町といい、そのほかは何村何村と称して細分された小区域の村落であった。これは封建制下の江戸時代では全国的にほぼ共通していて、戸数・人口も大小区々であって、それぞれ村落には名主・組頭・百姓代の三役があって封建政治の一単位になっていた。町の部落が今日の位置にそれぞれ発達したことは、生活に最も適した立地条件の数多くの良い所が備わった場所が選定され、特に自然条件の良い地形、水、日照、災害等が考慮されて住居地が定められ、農業集落として中世以降その形態をなしてきでいる。


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