箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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馬を駆していく様子は、まことに勇ましいものがあったという。(上伊那誌)明治四十二年辰野|伊那松島聞の電車開通、続いて伊那松島1伊那町間も開通して馬車の利用者も順次少なくなり、大正年聞にはいって漸減してしまった。大正八年箕輪村には乗合馬車一台の記録があり、十年にはなくなっている。当時の馬車運賃は、伊那松島|伊那町間二二銭とあるから、松島!辰野間もほぼ同じくらいと考えられる。天竜川通船天竜川通船は伊那谷の南北交通の大切な機関であった。特に、上伊那南部ではこれを積極的に利用した数々の資料(南向村史等〉によって明らかであるが、箕輪町のように上流近いところで、どの程度利用されたか詳かでしかし明治六年の筑摩県庁よりの天竜川通船についての達などによってみると、船運賃定の中に岡谷より沢村ふ十HBUW大正初年の自転車てテト、テトとラッパを吹きならしながらIIと記されている。それが明治四十四年には一疋立が八七台、二疋立が一台計八八台あったというが、箕輪町に何台あったかはっきりしない。松島を中心として乗合馬車があったのはたしかで、ハッピ姿に腰には赤毛布、草の鞭をふるっ乗合馬車は明治十八年に上伊那に一疋立一台,馬車


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