箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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迄、同所より飯島迄というような字句が見られ、沢村が一つの拠点であったことを明らかにしている。しかし、一方では明治十三年のしらベで「舟無之:::」の字句が中箕輪村の項に見られる。従って中箕輪村の住民の持舟は十三年の頃ではなかったものであろう。天竜川通船諏訪湖ぷ天竜川通り遠州掛塚港迄通船路修繕成功付今十八日別紙運賃相払侯様区内村々エ草々可申通知明治六年五月十八日筑摩県庁J開行聞届侯条存物運送致シ度者ハ当分右のような達しが出て各村へ洩れなくおふれするようにと区長、日野香々彦より通知が出ている。また「天竜川船運賃定」によると、岡谷より沢村迄四里三丁、下り八銭三厘、上り一二銭五厘、同所より飯O島まで七里半、下り一四銭二厘、上り二五銭というのが見られる。しかし実際にこの区間で船の往来があったものかどうかは詳かではない。車両数の変遷箕輪町に於ける車輔数の変遷は次のとおりであって、大正初年頃と昭和はじめ、そして戦後と著しい変化のあとがわかる。特に自転車数がそのひとつの表われであり、また三十年以降の自動車の著しい増加は、交通上での大きな変化ともいえる。O明治十三年に中箕輪村に「耕作小率四輔」の字句が見られる。これは人間の引く荷車のことであろう。四


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