箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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これについて中箕輪村、東箕輪村、箕輪村の取調のまとめといったものは見当らない。同年五月二十二日にこの取調べについて未提出の村々は早く提出するようにという督促の達しが出ている。従って明治六年頃にはこの近辺にも人力車が普及しはじめていた頃と思われる。明治十一年中箕輪村に一四台あったと記されているし、明治十三年の中箕輪村概況によると、人力車一四輔と記されている。その所有者は明らかでない。また、東箕輪、箕輪ではどのくらいあったかわからないが、明治十四年に東箕輪の淵井金太郎が、伊那富村(現在の辰野町)春宮竜治より人力車を買い受けている。この淵井金太郎は、買い受けてより僅か二ヶ月で廃業屈を出している。この頃人力車一台の値段は中古で拾円くらいだったという。その頃の人力車交通は鑑札制度で、営業として人力率の交通をしようとするものは届出をして鑑札を受けて、その上で人力車ひきの仕事をした。賃銭には公定価というものはなかったが、大体一里六銭くらいの相場だったようで、伊那町坂下から松島まで一二銭から一五銭くらいであった。その頃はまだ鉄道の駅というものがなかったから、松島の町中心を定位置としたり、自宅をその場として営業としていたものであろう。当時は人力車の車夫は非常に威勢がよくて、車上の客をしば/¥忘れて突走り、上り坂になると客を降して人力車の後押しをさせ、特に羽場の北の坂、大出の深沢川の両方の坂、塩の弁の坂では主客転到のこうけいが見られ、ほんとにゅうちょうで面白かったと回想を聞してくれた老人があった。人カ車


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