箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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続いて明治二十四年十月、伊那谷鉄道敷設のため、地元関係者がこの実現について運動をおこしている。具体的には明治二十六年一二月二十五日上伊那青年鉄道期成同盟会というのが赤穂安楽寺で聞かれ、伊藤大八代議士を迎え気勢をあげた。しかし翌明治二十七年五月二十三日、中央本線は木曾谷通過と決定し、同年六月、上、下伊那の地元では辰野|飯田聞の鉄道敷設の要望を決めた。こうした情勢から明治三十一年十二月十八日、伊那電車軌道設立の件を下伊那郡町村会で決定、下伊那町村会としての引受株式二万株とした。明治四十年九月三十日伊那電車軌道株式会社を設立、同年十月二十七日測量に着手した。明治四十一年三月九日第一期工事に着手した。(辰野1伊那町間〉明治四十二年十二月二十八日伊那電気鉄道株式会社、辰野|伊那松島聞が開通、長野県として始めての電車が登場するのである。この後の変遷は次の如くである。明治四十四年二月二十二日松島I木下間開通KKグ四十五年五月十一日松島|伊那町開通大正二年七月二十日伊那電荷物運搬開始(辰野|伊那町間一トソ九十五銭)大正八年十一月二十五日伊那電県より三十万六千円の補助を受け、辰野|伊那町聞の大改修昭和十八年八月伊那電国営移管、飯田線となる。伊那電鉄敷設当時の概況を見ると次のとおりである。(開通記念帳より〉〔起工〕明治四十年十月二十七日より第一期線として辰野|伊那町問、約十一哩の線路実測及発電所の測量をなし、つづいて翌年十一月より用地買収並に軌道工事に着手す。〔営業開始〕明治四十二年十二月二十八日第一期線の内、辰野|松島間五哩三十五鎖の運輸営業を開始し、伊那郡に於ける交通上の一新紀元を画するに至れり。


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