箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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伝のことを決めた。こうした中馬の組織に新しい方法として中牛馬会社がはじめて県内に設立された。明治五年八月佐久郡小諸町の小山田五左衛門を頭取として、発足した。これに続いて長野中馬会社と県中牛馬会社が、長野に開業して、全国的な組織をもった輸送業が、はじめられた。これによって、各宿駅の伝馬所と助郷制度が廃止されて、各駅に中牛馬会社(陸運会社〉ができた。またこれに関連して牛馬の持主は一ヶ年三銭五厘の中牛馬税を納め、無鑑札の者は必ず鑑札を受けるように義務づけられた。筑摩県管内には、松本・塩尻・高遠・飯田などに諸会社があって、運賃は一駄二十六貫で、里程一里について三銭五厘から五銭であった。しかし組織改革をされた後も、荷物の輸送は、馬の背によることが主であったが、このころより人力車が県内各地に移入され、明治六年には中野で、人力車渡世の許可を受けるものがあらわれ、旅客輸送の一転機をもたらした。また、河港道路修築規刻が公布され、これにともなって伊那街道は、第二等区分となった。この規則によって道路掃除はもより町村の負担となり、道路、橋梁の修築は、県庁に目論見帳を提出し、許可を得て地元の町村が行うことになった。また、明治八年二月には、陸運元会社の社名を内国通運会社と改め、続いて陸運会社を解散して、内国通運会社を設け、その規則を定めた一方、中牛馬会社、内外用達会社も、もとの如く存在した。主な宿場には、通運、中牛馬、用達の三社が、ならんで、牛馬の背による荷物の中継と集散が行われ、設立当初官営であったものが、順次に民営に移管していった。中馬は会社から鑑札を貰い、運ぶ荷物も会社の仕切りによって運ぶように、宿馬と中馬が会社によって統一されたわけであるが、実際にその通り行われると、中馬としての特質が失われて、中馬追いの利益を阻害されることになるので、反対の運動がおこり、実際には、会社の手を経ずに、荷物の運搬が行われた。また中牛馬会社から出していた鑑札も、明治六年十一月の永山権令の回文によれば、中牛馬会社の弊


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