箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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害を認め、筑摩県飯田出張所から出すことになった。このようにして、維新の際の宿馬の中馬稼ぎに関する、制度上の改変はあったが、中馬制度の内容については、以前と殆どかわらずに中馬街道としての三州街道の重要性はいよいよ増大していった。一方においては、道路の構造は僅かに馬の往来が出来るだけであったが、明治維新後幾度か改修されて、明治十六年三州街道(塩尻||根羽間)が県道に編入され、これが順次改修されて明治二十四年間道となった。道幅も三間となり、道そのものの傾斜や屈曲も、だんだんとりのぞかれた。このころ上回に、乗合馬車二台がおかれ、北安曇郡下の諸車は、(明治十六年〉馬車三、荷馬車五、人力車一六、荷車九九、となり、上伊那郡下人力車二六台というように、輸送機関についての変遷が顕著となってきた。まず輸送力の少ない牛馬が減少し、次いで荷車の減少、そして運送馬車の盛なる時を迎えるようになる。三州街道にも運送馬車が南から北から陸続と続いた。道筋には、挽子の休憩する掛茶屋、いっぱい屋(酒)が栄え、宿々には牛馬宿にかわって、運送宿ができ、さらに、人力車・乗合馬車の立場も設けられた。こうして三州街道は、大正はじめからの、伊那電の敷設、さらに、昭和初期よりの自動車輸送にいたるまでの問、長い運送馬車時代となった。伊那谷交通の変革は、何といっても、伊那電の開通である。伊那電は、明治末期から大正年代にかけて開通しOたが、この開通に先だっ中央線の敷設である。中央線の敷設は、木曾線、伊那線争奪の結果、伊那線の敗北となり、明治四十三年木曾まわり全線の開通となった。一方伊那電は、大正十二年飯田までの開通によって、三州街道は荷馬車の動きも少なくなった。僅かに中馬の運送形態を残して運送業を行ってきた荷馬車も、大正十年頃を境として、自動車が伊那谷へもはいり、一ニ州街道筋にも大正十四年頃より、貨物自動車が動くこととなって、漸次、その存在価値が少なくなった。積載力と速度においては荷馬車をはるかにしのぎ、しかも、宿場を必要としない貨物自動車の出現に宿場もすたれ、中牛馬会社も、大正十年頃には終わりとなった。


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