箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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現在では道路を直線とし、なだらかな坂道と改良した。日頃この道路を東県道とよんで、パスも通っている。三州街道が改良され国道一五三号線となってからは、東県道として国道の補助道路のような性格になって、交通量は大分少ない。春日街道〈沢尻・箕輪線〉天竜川西の道路はうよ曲折して交通運輸上頗る不便で殊に軍事行動にあっては格別であったので、文禄二年、飯田城主、京極高知は、当時の街道を西方の山麓に移そうと工事に着手した。しかしこの大工事は容易に竣工せず、慶長六年、小笠原秀政そのあとをつぎ、これの完成をはかった。そこで執権春日淡路守に命じて工事を監督させ慶長十三年漸くでき上った。この道は飯田より今の県道西上方を通り、片桐に出て七久保、飯島の西部を通って赤穂の原の中央を横切り、宮田の山麓より小出に至り、伊那部の東より小沢の下を過ぎ、大萱に出て、これより木下、松島の西天の水田の中を通って、大出に出るもので、春日淡路守自ら監督の任に当ったので、春日街道という。このように多年の歴史を経て出来上ったこの道も、沿道に民家の移転する者少く、場所により用水もなく家まばらにして盗賊の出没するような時期すらあった。その上駅馬、伝馬の不便さえ生じて農民よりも苦情続出ということになって、五十年ほどにして廃絶ということになってしまった。しかし箕輪町西方木下及び松島の地籍は昔の所に、水田がひらけたため道路としては残春日街道


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