箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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書類が合併の際処分されてしまって、調査の手がかりがない。昭和になってからは、六年二月着工四月竣工の松島北島堤防のように鉄線篭による築堤法が各河川に取り入れられようになった。戦後二十二年には飯田市白山町に内務省天竜川工事事務所が設置され、施行区域を左岸(東岸)は上伊那朝日村から下伊那竜江村までとし、右岸(西岸)を辰野町から川路村までとなってからは、護岸工事が急速に進められた。昭和三十六年のいわゆる三六水害でも、支川には欠壌のため消防団が出動したが、天竜川に被害がなかった。昭和二十二年内務省は解体し、同工事事務所は新設の建設省に引き継がれ、また同事務所は天竜川沿のみでなく、天竜水系の砂防工事をも行なうようになった。各支川に砂防堰堤が構築され、また護岸も国県の直営工事で急ピッチに進められるようになってからは、水害は急減している。大正八年には松島北島地籍(深沢川合流附近〉の自営堤防施設改修工事の申請をしている。大正六年の洪水で自営の応急工事を許可され修繕工事を施工したが、多額の工事金が必要となるため、堅らうな護岸設備が出来なかったので前年に引続いて施工し、県が施工した中聖牛も竹篭が破損しているため、この状態では設備は勿論のこと、更に堤防は破損して大被害をうけるので、関係地主達は黙視するを忍び得ない旨を請願し、四一六円五銭を拠出して修繕工事仕様書・土砂堤O一間口当仕様書・据置鉄針篭一間口当仕様書・根国鉄針金篭一間口当仕様書・設計見取図を添えている。この様にして、農民が所有国を自己防衛の積極的手段にうったえ、施工したことの意義は大きな社会変化と考えられる。この等の代表者は松島の一一一沢喜芳であった。昭和初年の北島堤防工事


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