箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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金四拾八円三拾五銭三厘七月二十六日分右ハ本日早暁県道堤防ノ中部潰決セシニ付切レ口ノ上下猶欠ケ崩レヲ防禦シ且本流ヲ河心ニ追フタメノ枠入レニ付本額ヲ費ス」とある。出費の内訳は、縄、土俵、瀬追木、人足費等で、三日間合計一二円四九銭二厘を費している。「同夜(二十五日夜〉雨愈と烈ク濠水大ニ溢レテ益と危急-一迫ルヲ以テ橋梁鳥居へ掛リ物ヲ外ツシ且ツ道路防守ノタメ夜番人足二十一人」というように、懸命の防水活動を行なっている。この洪水での田畑の被害は、南小河内一町三反余、北小河内九反四畝余であった。里道、橋梁等にも五円程の被害があった。この水防費は、県道でありながら、村民有志の義担金と村税とで賄われた。「義損金募集照会書一金四拾円北小河内耕地一金三拾五円南小河内耕地右ハ県道水害防禦費ニシテ村会-一其収入按(案)ヲ提出侯処終一一廃按ト相成出途一一品定支侯条従来ノ緑故モ有之候間貴耕地一一於テ右一点下ノ金額ヲ目当トナシ有志者-一義損金御勧奨相成度此段及御照会候也二十二年十二月二十五日村長両耕地総代殿」募集の結果は、北小河内六円、南小河内二九円六二銭山口英風村長等五円で目標の五割強であった。前掲照会書中の「従来の緑故有之候間」というのは、従来県道を利用していた縁でという意味にも、従来の慣例に従ってとも解釈できるが、何れにせよ当時の水防費の大半は村費で負担されていた模様である。以後明治年聞における洪水災害の記録は、三十年九月の帯無川、深沢川堤防決壊、三十九年七月十六日帯無川の堤防決壊ハ村会議録)のほか、公私何れの記録も見当らない。


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