箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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天竜川については、明治三十年ごろまでは護岸が不備だったから、二十二年以降にも堤防決壊の年もあったと考えられるが、三十年に大出堤防、松島鉄砲島の大堤防等が築設されるにつれ、被害は漸減したようである。深沢川、帯無川等支川については、土砂堤で護岸が脆いせいもあって、造っては流され、築いては破壊される、賓の河原の状態が長く続いた。明治初期までの治水状況の一端を知り得るものに、明治七年五月十五日、第十七大区六小区伊那郡木下町村より筑摩県権令永山盛輝に提出した調書によると、「天竜川字大清水一堤防長二百五拾間但前々官費御普請所辰年(註明治元年か〉瀬向東江寄己年以来休年罷在候字苦谷帯無川尻一用水伏越樋長八間巾五尺此入費明治二己年普請無之候同三午年急破修繕費金四円四十一銭民費同四末年普請無御座候同五申年普請無御座侯但隣村松島村ノ内字坂井下ト申場所ヨリ帯無川ノ地下一丈余掘抜キ字大清水田方養水樋従前官費場所午年急破民費修繕仕候字新堀平常道路一悪水除長八町余平均幅四間深六尺此入費


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