箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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明治十二年の上古田区貯穀書上の控によると、籾六斗六升一合と大麦二口で三六石一斗七升五合とを積穀とした。しかしこの中鼠喰等により敗損のときは、これを減らして積直しすると記されているし、明治十六年の東箕輪戸長より上伊那郡長への提出の文書にも「:::本村北小河内ニ保存ノ貯穀既一一十有余年ノ前-一蓄積シタル故大イニフケ穀ニナリ其量モ減少シタユ付新穀一一積替致シタク:::」というのがある。従って長い場合には十年以上の長きにわたって積んでおいたというようなこともあった。当然食用として供することのできないようになるのは明白で、これを新しい穀物と入かえる方策をとったのである。これについての届出は許可となってそのように取計った。こうした貯穀の制度は明治はもとより大正年聞から昭和まで続いた部落もあり、大出部落の現在の公民館は、その貯穀の倉の場所へ、貯穀した穀物売却代を基金として建てられたものであり、上古田では戦後まで続いたものを豊作の年にやめ、その場所が、診療所として一時期利用され、現在は区の雑庫として利用されている。また貯穀物の売却代は、区の特別会計として積立てられている。明治十三年に布告され、翌年一月一日から施行された備荒儲蓄法は非常、凶荒の不慮の災害にかかったときに擢災者に食糧、小屋掛料、農具料、種子料を支給し、権災の為国税地租を納入できない者にはその額を補助又は貸興することを定めてある。要するにこの法は、凶荒時の地租負担の引当金の確保と農民の再生産の維持を目的として、事実上は地租増税であった。町の各部落においても「上伊那郡貯金穀取扱手続」に示された基準に随って「此の取扱手続ハ郡下町村ニ於テ凶荒予備ノ為貯金穀ヲ為スベキ標準ヲ示スノ法トス」とあり、その徴収基準は次の通りであった。「地下百円ニ付籾三升向上大麦三升戸数一戸ニ付金五銭ヨリ拾銭迄」


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