箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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郷倉へ積置く場合の割合などを定めて、それにより穀物を出して貯蔵したものである。即ち明治十八年に上古田にあっては地価一円について大麦三升を出し、戸数割として一戸大麦一升を出している。この頃は大麦をOO広く裁培し、これを郷倉に積立て飢僅の場合に備えている。また木下村にて貯穀していた分をまとめないで各自預り置くということがあった。木下村で四八人の者が籾子二俵宛を各自預り置き、山山穀とりまとめの場所がきまったらまちがいなく出すということを明らかにして次のように貯穀預約束蓄を出している。貯穀預約束書去ル明治十年七月中壱組ニ付籾子弐俵ッ、預リ置侯分本年地毎組合ヨリ取纏メ出穀可致協議之処髪一一蓄積之場所不都合ニ付今度更ニ改正シテ来ル明治十四年四月迄ニ各自ニテ預置申由当明等候也然上箇勤明取定之上同年五月限リ無相違出穀可致事ヲ為念各伍長一同連署之有侯のテ如件明治十三年十二月二十七日伍長総代記伍長籾子弐俵唐沢治左エ門同同同間弐俵城取新四郎同同弐俵荻原友太郎同弐俵木下彦四郎同弐俵荻原健一郎外四十三人またこうした貯穀も長年の聞には、貯蔵上の不手際からも、永年蓄積したことからも、穀物がくさったり、むれたりして、籾、麦がフケ穀(むれてしまって食用にならないもの〉となったりした為、新穀と積替えるということが行われた。当町何某


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