箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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明治維新の初期に於て各藩随意に貨幣をハ二分金)鋳造し金質頗る粗悪となりたれば新貨百両の為替相場三十両に下落し、物価騰貴甚だしく経済界の動揺一方ならず、政府之を救わんとして信濃に四商社(南信商社飯島、中信商社塩尻、東信商社|中ノ条、北信商社中野)を設立せしめ、政府は金六万両(一社一万五千両)LIを年四分利にて貸付け、民間の有力者よりも出資して資本を合同し、悪貨交換のことをなさしめた。民間の出資者は沢区小原儀十郎をはじめ、約十名の者であった。一口千両を出す規定であったが半口を出した者もあった。商社は紙幣発行の約束があったが、創立後制度の改革がしばしば行われ、そのため許されず、商社の損害は莫大であった。そこで窮余の策として生糸の買占めを行い損失の挽回を図ったが、これも成功せず、商社濫用の廉を以て代表者は罰せられた。明治五年政府は商社に対し貸付金を返済すべしと催促があった。しかしとても返済できないというわけで、四社連合して返済免除の願を出しそれが許可となった。長野県政史によると明治初年に松本藩においては、通用物産役所を設置して農民よりは農産物を、商人からは商品を担保として低利にて資金を貸付けていたが明治四年廃藩置県後もこの業務が継承され、当時四万円以上の預金を受入れて農商工人には十万円以上も融資をしていた。この組織運営の利点なることを筑摩県が導入して地方産業振興開発をするべく設立したのが開産社であった。時の筑摩県権令永山盛輝は産業開発振興の目的をもって明治六年十一月十六日管下三十大区長を集めて勧業政策について協議した。その結果、筑摩県住民を出資者として開産社を設立することにした。その出資方法は各戸が米雑穀を出してこれを金に換え、これを以て産業資本として貸付け、地方産業の開発を計ろうとしたものである。しかしこの考えはなかなか一般住民に理解させることが容易でなかった。昭和七年十一月村々で大区長宛約定書を提出しているが、それを見ると出資高を詳細に記している。開産社


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