箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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Oこれら新貨幣と同貨幣との流通、また藩札濫発も重なって、物価は著しく騰貴し、県や各地でも、年貢減免の要求が出て騒擾がおこった。これは贋金の出まわり紘一寸も加わって明治三年まで続いた。明治四年五月新貨条例を定め、新貨幣の呼称を、円、銭、厘の十進一位法、旧貨の一両を一円と定め、日本最初の金本位制をとったのである。その年七月には、藩札の通用を禁じ、旧藩札を七月十四日現在の相場により引換えることとした。十二月新紙幣発行布告となり、百銭は八十文、文久銭は十五文として換算された。明治五年十一月国立銀行条例が公布され、国立銀行に銀行券発行の特権を与えたので、政府の出た紙幣とともに、さまざまな紙幣が流通することとなった。こうして明治七年十月大蔵省は、各府県に対して、収納の旧紙幣、正金免換証券の再支出を禁止したので、名実ともに幣制が確立された。Jその後、明治九年に金禄公債証書条例が公布(家禄を廃し一時金として公債を交付)されて、旧藩士は一時的にうるおった。明治十年八月には松本に第十四国立銀行が、飯田には第百十七銀行が、十一月には飯山に第二十四国立銀行など、あいついで設立され、県内金融の中心として活動をはじめたのである。この頃より長野県内各地で新紙幣の流通が正常に行われるようになった。その後、明治十二年十二月、藩札製造禁止と維新以来の、製造分が停止となり、以後藩札の流通は殆ど行なわれないようになった。さらに明治十八年日本銀行は党換券としての十円、一円、百円、五円などを相ついで発行し、紙幣制度そのものも定着した。伊那県南信商社伊那県南信商社創立(明治三四年)


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