箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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桶まで同様に行っている。また明治六年に木下の伊藤三平が、酒造についての願書を出している。伊藤氏は明治五年八月、酒造高一五石の届出をして鑑札を下付されている。ところが伊藤は副業としての桑苗売捌きのため五年十月山城、摂津両国へ出かけ明治六年二月に帰村した。しかし諸準備、整わぬため、本年限り休造させてほしいとの願を出している。従って木下にも作り酒屋のあったことがわかる。明治三十五年頃日野弘人(松野屋)が現在の箕輪町農協(本所〉のところに酒造庖を開業した。銘酒「松緑」と名づけて醸造した。大正五年、松島の大火の時はこの二軒の作り酒屋とも類焼した。山岸酒造では沼桶にも火がはいり、大きな爆発をおこし空中高くふき上げたという。松野屋もこの時全焼してしまい、その損害も大きく、加えて昭和初期の不況の打撃から倒産してしまった。時に昭和五年のことである。酒造のしごとは冬期、寒さのきびしい時に行うのが普通である。明治頃から昭和三十年頃までは酒作りの職人(杜氏〉は殆どが新潟県から来ていた。十一月下旬とりいれの仕事もすんで何人かがつれだってやって来て、山岸に住みこんだ。そして三月噴まで、酒造りにはげむのであるが、働き者の越後の人、朝はまつくらな午前三時頃から広い酒蔵の中で、寒気をものともせずに働くわけである。米洗いから、ふかすこと、こうじをまぜて仕込むしごとなど、なかなかの重労働を約四ヶ月間、つとめるわけである。広い酒蔵の中に寒気がピLンとはりわたる中を、お得意の佐渡おけさや、酒造りうたなど、うたいながら、仕事をする様子は、社氏独得のものであった。近頃ではこれら杜氏も、新潟県の人たちでなく、諏訪の原村、富士見町あたり(山浦地方〉の人が来ている。酒作りのしごとも近代化され、労働時間も昔のようでなく、酒作りの情緒も、ほとんどうすれてしまった。勿論酒造用の道具も機械化され、屋根までとどくような木の桶も金属製品にかわってしまっている。箕輪町の酒造業者のうつりかわりは次のようである。O


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