箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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明治六年頃木下には紺屋として小平清兵衛、原八郎兵衛、鳥山才治郎の諸氏があった。染物業である。地元または近郷の家々よりの注文の染物を仕上げるのである。また繰綿業として、荻原国助、小林徳兵衛、小林弥平等が営業をしていた。繰綿というのは、現在の紡績の初歩であって、綿より木綿糸を製した。醸造業としては酒製造、味噌、醤油製造などがあるが酒については、古くから山岸にあって作り酒を行っていたし、近くは松野屋などで行っていた。味噌製造についての工場は古いものは(明治年間)ない。味噌については殆どが自家製造であった。従ってこの箕輪町では製造販売ということが行われるようになったのは丸三味噌株式会社が、最初であり、これに刺戟され山岸でも味噌製造を一時期手がけている。O醤油製造は明治五年にその届出をして、開業しているのが、木下の小林徳兵衛と同じ木下の笠原平一である。小林徳兵衛は、醤油高三石、正造と記されている。これについて壱番桶より三番桶まで計一八石八斗従って一一石二斗不足であるから訂正方を願い出ている。また笠原平一は御免許高三五石、正造一九石、不足二ハ石と記されている。従って、両氏とも醸造不足となっている。この間の事情は販売先のないものか、作業場の設備不足なのか、明確ではない。一般家庭にあっては、味噌のおりからの「タマリ」としてとったものを用いた家も多い。上伊那に醸造業のおこったのは、清酒を中心として、醤油、味噌などであるが、良質の原料には乏しい条件を克服して、凍冷期聞が長く醸造に適していることと、地域にもよるが良質の硬水に恵まれたというようなことからであろう。箕輪町でも山岸酒造を先駆としていくつかの醸造工場ができ、生産高もかなりの額にのぼった。酒造業箕輪町の酒造業の歴史は古く、山岸酒造では江戸時代の頃よりはじめたといわれているが、箕輪郷周


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