箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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而して明治二十七、二十八年戦後、地方の金融緩慢となるや庶民一般審修に流れ、人情は軽薄に趨れり。明治三十二、三十三年に至りて、財界の恐慌となり、金融または事業会社の破産するもの続出し、各自経済は窮迫を告げ、多額な負債を生じ、益と疲弊に傾くの社会状勢にして肥料その他産業に必要なる物資を得むとするも、融通の途なく農村は漸次衰額し、前途甚だ憂慮に堪えざるものあり。此秋に於て有志相諮り之が救済の途を講じ地方自治の基礎を固め、人心の善導に資せんことを図り、奮然起て計画を進め、本組合を創立したるところなり。創立当時の理事、監事組合員の氏名左の如し理事ハ組合長〉丸山友弥、大槻倉太郎、丸山音蔵監事有賀久吉、土橋善太郎、北川式十郎組合員唐沢栄)郎以上のような設立の動機より考えると僅か七名の有志が相謀り、当時としては画期的な組合設立を行った。そののぞむところは、経済面の破碇を救い、地方自治の基礎を固めようとしたのであるから、計固まことに大であった。この時設立されたのが購買組合であるから主として物資を購入するといった性格のものであって、農業に必要な肥料、その他の物資であった。その後大正十年まで購買組合となっているから、そうした性格が約十五年間続くことになる。それが販売商にまで拡張して生産組合という内容を加え、その後、販売事業や指導部門まであわぜもつようになる。こうして生れた大出購買組合は、順次その規模を拡大して、大正十年には大出信用購買生産組合となり、さらに大正十三年には、中箕輪信用購買利用組合となった。組合員の範囲も大正十年には八乙女、沢、松島にも及び順次その数も増加している。十三年には名称の如く中箕輪村一同に及んでいるのである。そして昭和六年には、箕輪、東箕輪の両村をも加え現在の箕輪町の範囲に及び、箕輪郷の農民の組合としての


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