箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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O昭和十八年十一月、農業団体統合により、農業会となった。明治後期に於て発足し、長い間、村の農業の指導的役割を果してきたが、農業団体法公布により、農会は長野県知事の命令で解散し、新たに農業会として統合された。第二節産業組合中箕輪村産業組合の設立農業者の協同組合が、全一国各地に作られるようになったのは、明治三十三年産業組合法が公布されてからである。続いて明治三十四年三月十五日無限責任藤沢村信用組合が設立されて上伊那地方での先鞭をつけた。この後明治三十七年頃となると上伊那郡下の桑園面積は三千町歩をこえ、養蚕収入は米の収入額を超えるようになった。こうしたことから、農業技術の普及あるいは蚕業技術を得たり、繭の売却等について組合を作った方がよいということになったのである。中箕輪村産業組合の最初をたずねると大出の購買組合である。時は明治三十八年、日露戦争中の三月のことで、当時の社会情勢からして、農村事情を考え、その将来を予測して、こうした組合を設立したことは卓見というべきであらう。組合設立の動機として中箕輪農協沿革には、次のようにしるしている。組合設立の動機本組合の所在地中箕輪村は中央線辰野駅を距る南方二里、当時戸数一五余戸、上伊那郡中第三位の大村なOOるも、大出区は僅かに九二戸の小部落にして農業を以て生計を営めり。


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