箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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日より八月末日まで、第二期十月十五日より十月末日までと定めている。明治三十八年頃木下には産業督励組合なるものがあり、農事研究や共同作業等を行なっていた。首代作りのこと、虫害駆除のこと、苗代種子塩水選というようなことが事業としてあげられている。これは農会とは直接上下的な関係はないが、仕事の内容としては多分に深い関係をもって事業が行なわれていたことは想像に難くない。その頃上伊那農会より発刊された「農事注意書」がある。これは農会をどのように利用すべきかについて、その殆どの頁を割いて述べている。まだまだ農業技術のおくれていたこの頃、農会を大いに利用して農業発達のため、また農業従事者自身の生活の安定を図ったものと考えられる。冒頭に「一、この書を読むものは宝の山へ登るの道を見出すことができる。」とあげているのは引用文としてまことにおもしろい。以下「読んで信ずるものは宝の在場を見出すことができる。」と述べている。明治四十二年発行の「同窓」誌によると、農業団体として下古田の購買組合、八乙女の農励会、産業会、上古田の上古田区蚕業組合と上古田肥料購入組合をあげている。これらはそれぞれ農会の下部組織ではないが、農会の指導のもとにそれぞれの農事の研究、また資金拠出などの方法を考えている。大正の農会O大正七年十一月には、中箕輪農会の基本財産は四回円六六銭であり、共同購入、桑園品評会などを主たる事業としている。また直接ではないが下部的なものとして、農事小組合があり設置を大いに奨励したが、松島と上古田に設立されたのみであり、ょうよう下部組織のできはじめたことを示している。ソゲ大正七年の中箕輪村事務報告を見ると農会の事業として、紫雲芙の種子一五石五斗(代金一、二三七円六O銭)除虫菊一二〆四八O匁(代金五四円八た郡農会主催の桑園品評会に中箕輪村より一五点出品し一等一、二等二、三等二、四等四といったよい成績をO銭)ホLク二四挺、二硫化炭素二九ポンド、等を共同購入している。ま


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