箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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加わっていた。戦争が進むにつれて、昭和十八年戦時統制令によって、日本蚕糸製造株式会社が設立され、竜水社は解散して中箕輪工場は赤穂工場とともに、この会社に工場を賃貸し、解散した竜水社連合会は事業を精算して、所属組合に、払込済出資金の払戻しをするという状態になった。敗戦の色濃くなった昭和十九年は、食糧事情の悪化もあって平和産業といわれた製糸業はとみに振わず、こえて二十年八月の敗戦を迎えるわけである。昭和二十一年三月、日本蚕糸製造株式会社の解散により、連合会竜水社は復元して、所有設備を出資会寸二七口、O一口五OO円、一、六O三、五OO円)に振向け、実際には組合は現金を出さずに、再び産業組合連合会を設立し、赤穂、中箕輪両工場により事業を開始した。昭和二十四年十二月には産業組合法廃止により連合会解散、農業協同組合連合会として新発足をしたのであるが、実質的な事業内容は変らずに続いたわけである。昭和三十四年には、伊那工場を廃止したので従業員の配置転換等があったが規模の内容は変らなかった。当時の工場配置は上図の通りである。昭和三十三年三月に器械製糸設備三割制限(これは当時の世界的不況と人工繊維の進歩により、糸価が低迷して蚕糸業は不振となり、崩落の途を辿る気配があったので、農林省等の指導もあり生産調整を行なったものである。〉により伊那工場一七五釜、赤穂工場八釜計一八三盆を日本器械製糸設備処理組合に売渡したが、中箕輪工場はそのままで繰業乾5回仁司寄女6日Z6寄女12倉竜水社中箕輪I工場見取図


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