箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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古田で製糸業を初め、国内用生糸を製造し、初めは従業員も二人程Oであり、最も多い時で三十釜であったので、従業員も四人にみたなOい位であったと思う、大正四年の二月に木下最南端の国道西側へ工場を移転して、ここでは輸出用生糸を製造した。ここでも従業員数は四続けて昭和十二年五月、国策による企業整備によって廃業するまで製糸業の経営を続けている。小林貞士口が下古田で最初に経営した工場配置の見取図は上図の通りである。これによって当時の工場配置の一端が伺えると思う。明治後半は主として器械導入当時の経営者又はその後継者が多く、その中に倉田宝代・小林貞吉等新しく加わった人々によって、製糸業が行われているが、大正期に入ると、これらの人々に伍して、新たに個人経営の企業が数多く加わり、なお株式組織の製糸工場が現われてくるのであって、場所・経営者・規模等についてみると次のようなものがあげられる。〈一林製糸場五釜OO③萩原重賢官下八之進一釜OOググ木場下所経営者又ハ工場名小林金六。製糸場@製糸場大加規模D木下藤田屋馬場国蔵⑧製糸場五OO釜J伏見館小林金六」那須金次郎〈和泉や)従業員一O人⑦小平APOO製糸場唐沢員雄二釜一五人位MHMHグ小林貞士ロ(下古田より移転〉四O釜松島春日宰続グ社長三沢喜芳園(株式会社組織〉専務小林石夫七五釜一五釜O従業員数一九人グ二OO釜(最盛時〉""釜OO日野義人(一文字屋)倉田宝代⑧製糸場市川牛太郎一二LOK小林貞吉工場の見取図T木グ"下


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