箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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四Y三井製糸場個人経営製糸の発展時代器械の導入による技術の向上によって、生糸の生産量は増大し、これに伴なって養蚕業もいちじるしく伸展するのであるが、製糸工場経営者は、多額の資金を必要とすることになり、座繰り時代から続けてきた人々の中にも、その繰業を中止するものが現れると同時に、製糸工場従業員として働いていた人の中で、その技術、経営を身につけて、自ら経営に乗り出す者も出、製糸工場の隆盛を自の前に見て新発足を企てる人々もあって、個人営業製糸の隆盛時代となるのであるが、明治後半は経営規模は拡大したが工場数はかえって減少の傾向を見せる中で、倉田宝代(南箕輪村久保出身〉、小林貞士口(下古田出身)の二人がともに中原の唐沢権九郎のもとで身につけた技術と経営力をもとに、製糸工場の経営に乗り出したのは、当時としては税目すべきことであった。当時の製糸工場経営者の態様を知る上でこの二人の動きにスポトをあててみると、倉田宝代は明治四十二、三年頃、小河内に本社を持ち松島に支庖(当時支部と称していた)を持っていた三井米次郎から貸金の整理の結果松島の支部(当時百釜の規模)をそっくり、渡されて経営に乗り出したものであるが、漸次隆盛に赴き最盛時の大正九年頃には、釜数二OO従業員は三人といわれ、松島本町東端のOO段丘上に位置した工場は活気に溢れ、村人の驚異と羨望の的となったものである。しかし設備投資の増大と糸価暴落の結果大正十二年から十四年にかけて経営困難に陥り忽ちにしてその姿を没してしまったのである。一方小林貞吉は下古田に生れ、長じて中原の唐沢権九郎が経営する製糸工場に勤めて後、明治三十五年に、下ー+ー『と-N


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