箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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これらの人々の多くは、座繰り製糸を経営しているうちに、器械製糸の有利なことを知り、木下の小林徳兵衛の指導等もあって、初めは五、六人乃至一人位の女工数で器械製糸を営み次第に拡張して二人、三人となOOOり、多いものは七人余というように発展させていったものらしい。O前掲小林徳兵衛の文書中にある工女一人挽の工場とあるのは一ケ所にあるものではなく、前掲各部落にあOOる製業工場の総計が明治十一年頃には一人挽となったのではないかと思われる、それというのは、生糸の出OO荷に際しては、共同の再繰場を設けて各個人の工場で生産したものを小枠に巻とったま、この共同再繰場へ運Lびここで大枠に巻きかえ「かな」にして規格を揃え、糸ねじりと称する男子工員が規格に合せて、三かなで一O括にし、更に一六括を一相として荷造りをして出荷したものである。(一梱の重量は九貫匁が標準であった〉。再繰場へ小枠を運ぶには近い場所では背負紐のついた・木製の箱に入れて背負っていき、遠一い場所からは馬の荷鞍の両側へ箱を取りつけて、その中へ小枠を入れて運んだ。横浜へ出荷した生糸の商談が成立して代金が為替で送られて来ると、責任者は各工場主に通知を出してこの共同再繰場へ集まり、各との出荷量によって配分をしたことが、中原の唐沢権九郎の日記によって知られる。責任者になる者は経営の大きな人々で、小林徳兵衛・唐沢権九郎等の名が多くあがっている。なおこの共同再繰場は通称大枠場といったことが権九郎の日記に出ているが、東洋社ともいい後年天祐社という名称がつけられた。これはとりもなおさず明治初年の、生糸改会社の機能を自主的に行っているもので、これによって製糸業についての運営、管理、技術の面でお互に啓発向上される点が多く、明治年代後半から大正時代にかけての、個人経営製糸発展の気運が醸成されていったものと思われる。設置場所については、当初は木下にあったのではないかと思われるが、明治二十年代には松島の元町辺に移されたと思われる。中原


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