箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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って製糸を始めていることがわかる。それから同年八月朔日の記事に「木下伏見やへ勘定不残、相済み」とあってつづく二日にも又伏見やとの金のやりとりの記事があり以後伏見やとは製糸を主とした取引の記事が明治十八年二月-日弥平が病気でたおれるまでしげく出ており、このあとをついだ孫の唐沢権九郎も又伏見やと事業の上で密接な関係をつづけている。文久三年から明治三十二年に至る聞の、祖父と孫によって、二八冊の(うち元治元年、明治七、一四、二六、二八、二九、三が欠けている〉「歳中日記日下恵帳」によって見ると当時の製糸業やその経営方法等が具にわかるように思えるので以下重要と思えるところを摘出し乍ら筆を進めたいと思う。さきにもあげたが慶応四年五月の糸引始めの際に使用した製糸用具は座繰りであったと思われる。これは弥平と事業の上では密接な関係にあった伏見やの小林徳兵衛が書残したものの中に、器械製糸の開業年月を明治十年五月としてあり、これ以前には箕輪町では器械製糸の導入はなかったと思われる。当時製糸業を営んだ者は、座繰製糸の方法によったものと思うのである。それに当時の養蚕の経営形態が文字通り婦女子を主とした副業であ〈ろつくわり、養蚕に必要な飼料である桑も専用桑園などは極めて少なく、田畑の畦畔に植えた畔桑と称するものを飼料にじて飼育をする状態であり、その産繭額も現在の養蚕家の量に比較すれば微々たるものであった。なおこの繭は自家用手織物の重要な材料であり、当時は綿糸も原料綿からの手つむぎによって糸にし、染めて織る時代であり、現在の如く産繭全部を出荷するものではないので、繭を買集めることはなかなか労を要する事であったらしOく、弥平の日記によれば、産繭の時期ともなればしきりに近隣の村々をまわって、東奔西走ということばの通り買集めに奔走している。そして自家用にと思うものを買出すには、相手を納得させる金額が必要であり、一方このようにして買集めても結構利潤のある仕事であったようである。その近隣の村々は日記によると、北は八乙女・大出・沢・下古田・北大出・羽場・神戸・新町・東は松島・小河内・長岡・三日町・南西方面では上古閏・富田・中曾根・大泉・大泉新田・吹上・羽広・上戸・梨ノ木・大査等が主な地区であるが、時には中条・与地などへも出かけたらしい。なお弥平は繭を買集めるばかりでなく、農家婦女子が自家用に織る綿織物の原料である綿の斡旋をしたり、藍627


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