箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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リ度良賞ロロモ才・ヲヲ製得シ努海一外層エ勉東励洋ン毛裏社テ襲撃張旺セ盛γ増ト殖欲セスシLーコ'--海外直輸出ヲ目論見仏国里温江輸出セシユ不幸ニシテ栢場底落損耗不砂ト難モ得失ハ素ヨリ商家ノ常敢テ意トセス殊ヲ謀626エ横浜弁木県上田町群馬県ニ於テ七県聯合共進会出口問其都即ち以前から米国絹糸会社の報告書や、横浜港に於て外国商人等が行う生糸取引の状況を目のあたりにして小林徳兵衛は器械製生糸の有利さに着眼し、その設立を企図して明治九年には官立の群馬県富岡製糸場を視察しつぶさに利害得失製造法等を研究して、明治十年五月それを建設するに至ったものと思われる。この工場は前出の二十五人挽のもので、場所は徳兵衛の家の裏手にあたるあたりであったろうと思われる。そして初めての事ではあり女工の技術もなかなか進歩せず操業も困難があったとみえて、次のような願書を長野県勧業課へ出している。「御願右私儀蒸気器機ヲ以製糸仕来営業罷在侯処教師ナク差問侯明治十二年七月間御製糸場工女ノ内士宮名教師ニ拝借仕度最モ給額其他都長野県テ御規則-一照準仕御指揮ヲ蒙リ取計可申間此段御採用被勧業御課成下度偏-一奉願侯以上製糸場御詰中小林徳兵衛⑪これは十年新設の時は工女二十五人に教師二人を以て指導したことが記録にあるが、十一年に同盟者と百人挽の工場を設立して斯業の拡張をはかり十二年にこの願書を出しているものであるが、器械製糸に対する熱意がよく伺える。ところが前掲沿革にあるように、明治十三年に同盟者都合に依り各所に分離して設置の際とあるように、此の年木下にあった工場を分離してそれぞれの場所で器械製糸を営むことになったらしい。その場所は中原と沢であったと思われる、そして同盟者とあるのは中原の唐沢弥平と沢の唐沢錠吉と思われる。中原の唐沢弥平の日記によれば、慶応四年正月二日の記事に、中曾根で年始をし乍ら繭代勘定残らずいたしとあるのですでに前年の慶応三年には近郷の繭を買集めておることがわかり、同四年の五月十七日には、糸引始、糸とりおきし、おせい、おやす、か弥よ〆四人、と記入してあるところをみると、この年には四人の女工をやと


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