箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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や煙草の原葉等も買取って、農家との経済的な交流を密にし乍ら事業の基礎を築きあげている。これは弥平のみにかぎらず、この時期にこの種の事業にたずさわった人々が誰しも行ったものらしく、当時の実態を知るのに貴重な資料と言えるものである。さてこのようにして年を経るうちに、養蚕が農家の現金収入の好個の仕事の一つである事に気づいた一部の人たちのうちには専用桑園を作るものが出てくるのであるが、はっきりした年代はわからない。尤も弥平の日記をみると桑の木畑と称する圃場が出てくるが、どの位の面積をもっていたものかは不明である。しかし弥平袈後孫の権九郎が経営を受継いだ明治十八九年には、春蚕のみでも二O貫位(凡そ八二匂〉の収繭量があった。同じ年に上古田耕地から戸長役場扱所へ出したと思われる桑園反別取調を見ると、桑園を所有しているもの二二名その合計反別七反七畝一四歩となっており、その割合は戸数にして凡そ三分の一あるが耕作面積の割合は全耕地の一%程度である。此の頃でもまだこの程度であることがわかる。そして桑園所有者の氏名によれば、当時耕作地に比較的余裕のある農家が専用桑園を持っていたものと思われる。このことは松島についても言えると思われるのは、唐沢権九郎の日記によれば彼がしきりに繭買に行った相手方の屋号によってうかがうことができる。(たたみや、竹屋、古屋、大西、粧屋、丸一屋、藤沢屋、真屋、東村、伊奈皇、桝屋等)個人営業製糸の時代明治十八年三月二十五日に、木下の荻原国助が、小林徳兵衛に製糸器械所壱ケ所を売渡した文書をみれば、当時経営された器械製糸所の様子がわかると思われるので次へ掲げることにする。「売渡証製糸器械所壱ケ所但造作附釜屋壱ケ所但但三間半拾壱間三間壱間半


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