箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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の規格の統一、向上と海外輸出の規制を図る目的でつくられたものであり、松本本社内六ケ所の中に木下が入っているのをみると当時箕輪町の養蚕製糸業が他にぬきんでていたことがうかがわれる。改会社が設立されると翌七年には、関係各村正副戸長宛生糸改出張会社社長小林徳兵衛より明治政府租税頭代理の奥書のある会社規則が廻されてその徹底が期されている。今その廻された文書によって木下生糸改出張会社が取扱った範囲を見ると、木下・三日町・福与・中曾根新田・久保・北殴・南殿・田畑・神子柴・大泉・大泉新田・大査・与地・上戸・羽広・吹上・富田・中条・松島・沢・大出・長岡・南小河内・北小河内・中原・八乙女・上下古田・平出・沢底・辰野・樋口・赤羽・宮木・宮所・今村・上島・新町・羽場・北大出・小野・横川・渡戸・雨沢の四十四ケ村と、繭生糸荷物改所小野村宇治勝治郎・同断与地村伊藤新左エ門・同断平出村有賀幸衛武・同断同村新村八街武の四ケ所となっている。これによってみると、現在の箕輪町は勿論南箕輪村・伊那市西箕輪地区・辰野町の殆どがその中に入っている。そしてこの地域が明治初年当時そこそこの生産量をあげていたものと考えてよいものと思われる。そして周年五月には本年生糸製造高見積とその製造人を会社宛一村連名にて差出すようにとの通知を正副戸長宛出している。この通知から考えると製造見積といえば一応工場等で製造した様にも思えるが今のところそのような状況を確認できる資料は見当らない。しかし文久年聞に諏訪郡平野村小井川(現岡谷市〉で座繰器械が製造され、これが上伊那北部にはいちはやく移入されて、明治初期にはかなり普及されていたものと思われるので、明治六、七年以降には小人数ながら取子を傭い入れた小規模の座繰製糸工場ができはじめていたものと思われる。木下の小林平八氏所蔵の明治八年五月二十九日、ニュLヨIグ・シュアネ街・九三・米国絹糸会社本局(社長ウラルドシュベル〉より、ニューヨーク駐剖日本副領事富田某にあてた、日本産糸見本八二箇についての、評価、要望一の報告書を見ると、第一号の上州富岡勧業寮製糸場(官立のもの)から第八二号の京都府下山城国二条鴨川製糸場まで、群馬県・石川県・福島県・山梨県・山形県・長野県・岐阜県・京都府と現在の一府七県にわたる産出生糸について、米国絹糸業者の立場から、色、民・太さ・撚り・包装・捲方・価格等について品等し且器械


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